コロナと「共にある」ミカエル祭

10月3日(土)、京田辺シュタイナー学校ではミカエル祭が行われ、6年生の保護者として、コロナ対策下でしたが観覧することができました。ミカエル祭は2、5、6年生による行事で、大天使ミカエルと聖ジョージの伝説を小さな劇と音楽で演じるものです。(※同様のテーマで「白いりゅう 黒いりゅう」など、別のお話を演じた年もありました。)

あらすじは……
天の国から大天使ミカエルによって追放されたドラゴンが、地上で人々を苦しめていた。その怒りを鎮めるために多くの少女がいけにえにされてきたが、残るは王の姫のみ。若者たちは姫を救うために槍、弓矢などで戦うが、全く歯が立たない。最後に挑戦したジョージもあえなく倒れるところだったが、最後の力を振り絞ってミカエルに助力を願う。祈りに応えたミカエルから授けられた剣により、ジョージはとうとうドラゴンを倒す。

あらすじからも分かる通り、このお話はキリスト教社会で語り継がれてきた伝説です。けれど、この劇は、特定の宗教を超えて人間が抱えてきた普遍的な課題を伝えています。それは、善と悪の狭間に立つ人間が、どのようにして悪を乗り越え、善に近づくことができるのか、ということです。答えは明らかにされていません。地上の民を演じる、まだ小さな2年生にとっては、それは敵をやっつけるための「勇気」かもしれません。ドラゴンを演じる6年生の年頃になると、悪は自分の外側だけでなく内側にも存在し、時にはそちらの方がよっぽど厄介な存在であるということを実感することがあるかもしれません。

大人の私にとって最も心に響くのは、2年生が唱える詩の一節で、「ミカエルの光に貫かれ、ドラゴンの血は、強き善き力となりました。大地を潤したその血は、すべての命を支えています」という言葉です。悪を完全に排除するのではなく、悪を用いてより良き善を創り出す力が、人間にはある。しかしそのためには人知を超えた力が必要になる。ただしそれは単なる神への信仰という意味ではなく、「自然は、そこに含まれる人間も、完全に理解・統率することは出来ない」という事実を認識することなのではないかと思います。

今年のミカエル祭は、マスク着用、観覧する保護者の制限、お互いに触れ合わないようにする演出など、例年とは異なる条件下での開催でしたが、マスク越しの子どもたちの声は力強く、希望を感じさせるものでした。
ウイルスの脅威にさらされて、私たちは、自然のはかり知れない恐ろしさを痛感します。けれどその一方で、私たち人間もまた、自然の一部として、はかり知れない力を潜在的に持っているはずです。それを発揮するには、「勇気」「信じる力」「自然に敵対するのではなく、それと共存しようとする姿勢」が必要なのかもしれない、そう感じた秋分の候でした。

Y.T.

シュタイナーの教育理念と宗教について関心のある方は、下記リンクもご覧ください。
よくある質問>学校の形態に関して>Q5.何か特定の宗教に基づいた学校なのでしょうか?


保護者ブログ一覧へ
このページのトップへ