教育内容
シュタイナー教育では子どもの成長段階に応じて、子どもの世界を広げながら、必要なものを育てていきます。
「自我とは私の中から出て行く私と、他人の顔をして外からやってくる私が出会うところに存在する」。 ある講座でこの言葉を聞いたとき、私の内に今まで何度も目にしてきた、射影幾何学で描かれる、直線を何本も描くことで浮かび上がらせた円が思い出されました。 中心点から等距離にある点の集まりとしての円という、いわば私の中心から出て行く私の表れのもう一方に、外からやってくる私の表れとして、無限の彼方からやってくる直線によって描き出される円がある。 そしてその内からの力と外からの力とが出会ったところに、円という形が生まれでるというイメージです。 そのイメージを持ったとき、私の内で円は、今までとは比べものにならないほど広がりと動きを持つものになりました。
射影幾何学は、平行な2直線も無限の彼方では1点で交わると仮定し、その1点を無限遠点として認めることから始まります。 この1点を認めることにより、点と直線は完全な双対性をもつことになり、ある命題において点という言葉と直線という言葉を互いに置き換えても、その命題は成り立つようになります。 例えば、「2点があるとき、それらを通る直線がただ1つ存在する」という命題から「2直線があるとき、それらを通る点(交点)がただ1つ存在する」という命題がうまれるのです。 けれども、この「無限遠点」が曲者でした。果たして無限遠点はあるのか、ないのか。 これは、このクラスの生徒たちの間で、折に触れ持ち上がっていた問いでした。 入学して初めての幾何学の授業の最初に、まず円を描き、その円の中心を徐々に遠くに飛ばし、やがて無限の彼方まで遠くした時、その円はどうなるかを考えた時から続いています。 その5年来の問いにもう一度取り組むのが、11年生の射影幾何学の授業でした。
授業が始まる前から、教室には対決のムードが漂っていました。 「無限の彼方にある点だなんて、そしてその点を中心とする円は直線になるだなんて、俺は絶対認めへんで」。「無限遠点の更に先に中心点を飛ばすとどうなる? っていうけど、そもそも無限のその先だなんてありえへん。」5年来の議論をもう一度蒸し返し、楽しもうというムードです。
果たして無限遠点はあるのか、ないのか。 無限遠点の存在を目に見えるように示すことはできません。「ある」ことを証明することはできないので、「ない」といえるかを考えました。 紙を地面に対して垂直に置き、立っている地点からまっすぐ伸びている直線上の点を、紙から透視したつもりになって紙の上に写し取っていきます(透視画法)。 すると、近くの点は紙の下のほうに写し取られ、遠くなるに従って点は画面上を上へと移動します。 やがて地面と視線が平衡になる瞬間が訪れ、無限遠点が写し取られ、次の瞬間、これまでは立っている地点から前へ向かって延びていた直線が、今度は立っている自分の後ろからこちらへ延びる直線となります。 そしてその点は画面の上へと向かって写し取られていくのです。ついに、私たちはある瞬間を迎えます。 もうこれ以上、直線上の点を画面に写し取ることのできなくなる瞬間です。 その画面に写し取れない点というのは、自分が立っているその地点です。現実には自分の足元にある点が、画面には決して現われないのです。
描けないから、目に見えないからといって、存在しないとは言い切れないことがある、そんなことを体験した後に、まずは無限遠点の存在を認めるという立場に立つことから、授業は始まりました。
そして、その無限遠点を認めることによって得られる射影平面における点と直線の双対性、射影空間における点と平面の双対性について知り、それが具体的にはどういくことを意味しているかを探っていきました。 例えば、「無数の点の集まりとしての直線」という命題から、平面においては、点は新たに「無数の直線の集まりとしての点」と捉えられるようになります。このように捉えると目の前にある一つの点が、無限の彼方と繋がりを持つものになるのです。また空間においては同じ命題から、直線は「無数の平面の集まりとしての直線」と捉えられるようになります。
その後、円を基本に置いて直線で描かれる様々な図形を作図した後、授業の最後に一つの図形に取り組みました。 まずは紙面の中心に一点をとり、そこから放射状に伸びる直線を描きました。そして、そのうちの一直線を選び(直線I)、中心点から1センチのところに、その直線Iに対して垂直に交わる直線を描きます(直線(1))。 続いて、直線(1)と中心から伸びる隣の直線(直線II)との交点の位置に、直線Ⅱに対して垂直な直線(直線(2))を描く。 この作業を続けていくと、やがてそこにひとつの形が現われてきます。 巻貝の内部の螺旋の形です。直線IやIIが表している、巻貝の内なる一点から外に向かって伸びている力と、その力に対して外から働きかける力(直線(1)や(2))、その両方がであったところに、巻貝のあの螺旋形が生まれでるのです。
この図形を描いた後に、保護者の方からお借りした、大きな巻貝を縦に切り取ったものを皆で見ました。それは今自分たちが描いた巻貝の形とそっくりそのままでした。 自然のなかで物の形ができていく様子を追体験させてくれるような作図でした。そしてそれはまた、無限遠点が宇宙の果ての話ではなく、私たちが生きているこの自然とつながっているものだということも示してくれるような体験にもなりました。
私たちが一般に学んできた幾何学をユークリッド幾何学というのに対し、射影幾何学のような幾何学は、非ユークリッド幾何学と呼ばれています。 数学や幾何学にも様々な考え方があり、どういう前提に立つかによって、見えてくるものが違ってくる。こうした内容は、12年生の最後の数学の授業に引き継がれていきました。 そして、「三角形の内角の和は180度である」という命題も、実は平面は全くフラットであるという前提の上に成り立つものであり、球面においては成り立たないことなどを見つけていきました。 決まった答えしかありえないかに見える数学の世界にも、実は様々なものの見方があり、また、今現在も数学の世界では様々な発見が重ねられ、新しい世界が広がっていることなどを、最後には光の速さで動いている世界のことを垣間見せてくれるアインシュタインの特殊相対性理論を例に、話していきました。
光の速さの世界を数学的に探求していくと、未来へとつながるタイムマシーンの存在も可能に見えてきます。「じゃあ、突然ここに徳川家康が過去から現われるってことも可能なんや。」という声に「それをするのは家康じゃなく織田信長やろ」という返答があり、彼らと過ごした7・8年生の頃に共に学んだ日本史のことなども思い出しながら、最後の授業を終えました。
津田義子
(高等部出版「黎明」より引用)